※脈略のない話です。
組立中の本物の人工衛星を見る機会に恵まれていたこともあり、時々、「陸にあるときの衛星ってなんて呼べばいいんだろう」というロクでもない思考を始めることがあった。
人工衛星という単語自体は、まず天文学的な定義がある。惑星をまわる物体を衛星といい、中でも人が打ち上げたものが該当する。 速度的には第一宇宙速度に達したものとなる。(速度を得るのはロケットの仕事だけれど)
冒頭のどうでもいい疑問については、宇宙機(SpaceCraft)という上位の言葉が用意されている。手のひらサイズのキューブサットから、大型衛星、惑星探査機まで含まれる。人工衛星の制作現場では、単に「衛星」と略されるため、はじめは混乱する。地上でいえば、携帯電話とその携帯基地局くらい規模の違うシステムが含まれている。
衛星って一般的にどう理解されているのか。その思いはMAKE会場で展示に興味を持ってくれた人の衛星観を見聞きしてきた中でだんだん育っていった。 普段衛星技術そのものを考えたことのない人が衛星について抱くイメージを知るチャンスってなかなか無い。 大学衛星も時折ニュースにはなるが、それほど数は多くないので、まったく知らない人が多いだろう。
軌道には決して投入されない模擬衛星実験や高層気球でも衛星と混同するような説明の文章をたまに見かける。(これは英語でも見かける)、広報媒体で採用される言葉には公報用語的な飛躍が見え隠れすることも多いので、さらに混乱を招いているかもしれない。
話を交わした中で、特徴的な誤解には以下のようなものがあった。
・ロケットが打ちあがった姿でそのまま回っている
・地上から昇っていく
・静止衛星の一種
衛星の立場から見て、上の誤解の中でやや懸念したのが、「地上から昇っていく」という認識だった。
実際には第一宇宙速度を稼ぐロケットがあってはじめて、衛星は軌道を巡ることができる。
ウェブではしばしば高高度気球がバルーンサットと紹介され、そこに載せた搭載カメラのHD映像が大手ブログサイトなどでも取り上げられて結構有名になった。 メディアの書き方をみると、気球と衛星を混同している人は結構いるらしい。
ということで、低軌道衛星というものはどうもスルーされている気がする。(その事実は家族に説明を試みた場面ですでに直面済みであったけど)
人工衛星の活動は一言で言い表すのが難しい。
ISSから撮った地球の動画のバリエーションが増えており、軌道からの眺めが纏っていた神秘性は減りつつあるが、衛星自体は一度打ち上げたら回収もできず、衛星の視点を見る機会はほとんどない。限られたリソースの中で、衛星自身が高画質な画像や映像をたくさん撮って下ろすということも難しい。
対してバルーンサットの場合は、まず高高度からの地球の映像や写真というわかりやすいアウトプットから話が始まるので、そこに技術的な理解はなくても良い。必要な技術もDIYの延長で、殆どの場合高性能な民生モバイル機器を寄せ集めて搭載したシンプルなものだ。しかも安価で、高ビットレート。 これは後で物理的にデータを回収すること前提だからできる割り切りでもある。
アメリカみたいに広大な土地がある場所だと、少人数とわずかな投資で綺麗な写真という成果が得られるし、プロジェクトとしては個人でも始められるので、ブログやメディアの記事を見るととても楽しそうだ。
(日本でやる場合は土地も空も狭いために、許可が取れる場所がかなり限られるのがネック)
同じ(ような)成果でも、アプローチが違えば技術的難易度も違う。 でも、人は使われた技術よりもわかりやすい成果やストーリーを求めるものだ。 バルーンはまだ地球大気圏内での話だから、そこも連想を呼びやすい。自分の身体感覚でわかる範囲から想像しやすいからだ。
衛星の運用方法、打ち上げ後の動作や降りてくるデータまで頭に入ってくると、電波を聞くだけで、その衛星が宇宙にいる様子(信号の強弱から姿勢と自転速度が、電波波形の歪みから電源の調子が)を思い浮かべることができるようになる。
心眼を磨き、軌道上の状態を人力拡張現実感で運用していくには、現場でそれなりの下積みが必要になる。こうして個人が獲得した感覚体験/経験を言葉に翻訳するのは難しい。
自分の中でも、携わる中で、衛星という概念はどんどん変化している。 ビーコンを発する小さな機械から、電波の司令で結果を返す遠隔機械へ。これはキューブサットでの話だから、大きな衛星になってくるとまた違うのかもしれない。
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一般的なイメージと現実が違うのに、その差をお互いに見ていないということはよくある。「ロボット」も震災後のイメージはだいぶ変わった。高度なロボット技術という物語と現実のすれ違いがニュースで取り上げられていた時期があった。
衛星よりも、単語の包括範囲が広くて面倒なのがロボットという言葉だ。 人によって解釈が異なるが、文化の影響でたいていの人はヒューマノイド・ロボットを思い浮かべるらしい。
しかし、実際には人型である必要は無いものが大半で、今は産業ロボットのUIとして実装される動きがあるほかは、研究、展示用途でしか見当たらない。 伊藤計劃氏の言うように、最初に実用化されるとしたらアメリカ軍が配備するだろう。
工場のロボット生産ラインが正確で精密な作業を行えるのは、環境のほうをロボットに合わせて構築してあるという側面が隠れている。 たとえば、いきなり未知の瓦礫の中を単独行動するロボットというのは難しい。自然環境は、無視していい情報と、無視してはいけない情報が区別なく存在していて、極めて曖昧だ。
センサの多重化、処理能力の向上などが続けばいいのかというと、処理能力さえ増やせばAIができる、というのと同じくらい怪しい。 実際にはロボットだろうと人だろうと、危険個所の除去や、情報支援、兵站によって環境のほうを改変し単純化していく過程が存在する。
ソフトウェアと同じように、知的に見えるロボットも人間の組織の課題設定や課題解決が具現化したものだ。
現実にハードウェアを持つがために、優れたロボット技術は八面六臂の活躍を期待されるものの、初めに設定されたルールの外では役に立つとは限らない。ロボットも設計したとおりに動くが、意図したようには動かない。
人にかわって、人にできることの一部を効率良く繰り返すロボット。人にかわって、人の出来ないことをこなすロボット。 人と機械の間のインターフェースになろうとするロボット。
人間社会は例外だらけであり、例外は人の数ほど存在する。ありとあらゆる事態を想定することは不可能だし、ロボットの可塑性を増やせば増やすほど、安全率の面で設計すら不可能になってゆく。人がある程度歩み寄ることを前提とするか、あくまで人をコアとして、動作を補助する分野での開発例は多い。
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Spinnerの動画をとっていて感じたのが、編集では隠れてる背後でのロボットの制御の様子や、カット無しの動作の様子を見せずに、いい場面だけ公開することはそのロボットの性能を過大評価させるだけだなあということだった。ストーリーのある映像作品としては面白くなるかもしれないけれども、そのあたりがおもちゃの域を出ない理由なのかもしれない。
物語の発信者は理想を現実の言葉と技術に包んで語る。 ただ、その理想像を技術者が現実に落としこもうとしても、物語の目指す理想を実現する手段がしばしば存在しなかったり、解釈を誤ったりする。
ロボットSFでは特に頭脳―制御システムが架空のブラックボックスとして導入されるし、宇宙SFではすでに宇宙進出した世界で物語が進行していたりする。ナノマシンという便利アイテムも使われるが、よくできた物語ほど、そうした前提を意識させることがない。
もともと物語は何かを語り継ぐ流れの中で生まるものだと思う。
満身創痍ながら帰還した探査機が運用者チームの活動とともに擬人化され、魂とストーリーを付加されたように。
既に開発された技術とそれにまつわる人間ドラマを語る時、物語化は便利なのだが、物語(構想)を現実に外挿するには、物語を選ぶセンスと使う手法の理解が必要になる。トップダウンとボトムアップの接点を運任せにするか、ある程度考えてから狙うか。 だんだんと話がヒット商品開発秘話みたいになってきた。
視野を身近に戻せば、生活に密着したデバイスに纏わせることができる「万能感」は、日常というもののなかですぐすり減ってしまう。 実際は、デバイスのおかげで日常が底上げされているのだけれども。 大企業は、常に自分たちが底上げした「日常」に追われながら、巨大な資本で明日の万能感を手探りしている。
自動車はドライバーを補助する電子装置の塊だし、ヒトの個体は成長とともに電波による通信能力を獲得するのが当たり前になった。
この記事もどこかのサーバーに蓄えられているけど、その所在はまったく知らない。
過去の人間からみた未来を今の人間は日々消費しているわけで、今の文学に登場する装置は100年前の人間から見れば全部SFだということを簡単に忘れてしまう。 日常の海で踊るうたかたの物語たち。